<ツール・ド・フランスの知識>
2007/09/17 日記<ツール・ド・フランス>
ツール・ド・フランス
ツール・ド・フランス (Le Tour de France) は自転車でのロードレース (自転車競技) |ロードレース競技大会の一つである。単にツール (Le Tour) と称されることもある。(本記事では以下「ツール」と呼称する)毎年6月または7月に開催され、フランス国内および周辺国を含む距離約3000km、高低差約2000mを越えるコースを3週間以上にわたって走り抜く「ステージ・レース」である。規模および参加選手のレベルの高さから、世界最大の自転車レースといわれている。主催者はASO(Amaury Sport Organisation)。ASOは元スキープレイヤーのジャンクロード・キリーをトップとする、傘下にレキップ社(スポーツ新聞誌)、パリジャン(一般新聞)などを抱える大企業である。他の主要なステージレースには、ジロ・デ・イタリア(イタリア一周)とブエルタ・ア・エスパーニャ(スペイン一周)があり、これにツール・ド・フランスを加えグランツール(三大ツール)と呼ばれている。ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアを同一人物が同年に優勝することを指して「ダブルツール」と呼び、加えて世界選手権自転車競技大会を制すると「トリプルクラウン」と呼び、「カンピオニッシモ(伊:championissimo、「チャンピオン」の最上級)」として讃えられる。
概要
例年、ツール・ド・フランスは、7月上旬から下旬にかけて開催され、9人編成のチームが21チーム参加する。最初のステージはプロローグと呼ばれる短い個人タイム・トライアル(1kmから15km)である。 その後には、200km程度の平地のステージを中心に、ピレネー山脈やアルプス山脈を走る山岳ステージ、個人タイムトライアル、チーム・タイムトライアル等、多彩なステージが設定されている。例年、前半は平坦基調のステージが続き、スプリンターたちの見せ場となる一方、中盤から後半にかけての山岳ステージではラルプ・デュエズ、ガリビエ、モン・ヴァントゥなどの峠を舞台にして、総合優勝をかけた壮絶な戦いが繰り広げられる。平坦ステージではロードレース (自転車競技)#競技者の特徴|スプリンターがステージ優勝する場合が多いが、総合優勝を狙うには山岳ステージとタイム・トライアルで好成績をあげる必要があるため、両方に強いロードレース (自転車競技)#競技者の特徴|オールラウンダーがエースとなって活躍する。
ツール・ド・フランスの特徴
伝統的に最終ステージのゴールはパリのシャンゼリゼ通り|シャンゼリゼであるが、この日は凱旋パレードの色合いが強く(選手たちがシャンパンを片手に走る光景もよく見られる)、実質的な総合優勝争いは最終日の前日まで、と考えて良い。ただしスプリンターにとっては最後のポイント奪取の機会でもある。マイヨ・ヴェール(最多スプリントポイント)争いがシャンゼリゼで決まる場合も多々あり、マイヨ・ヴェール争いをしている選手は最後の周回コースに入ってから真剣勝負に移る。また、何としても1勝を狙う選手もこれに加わる。一方、総合優勝争いで最上位にいる選手は集団落車にだけ巻き込まれないよう、チームのアシスト選手で周囲を固めてゴールスプリントが済んだ後にゴールに入る。大規模なレースを支えるため、オートバイや乗用車等のサービスカーが、情報・食料・飲料水を供給し、メカニックも呼ぶ事が出来るようになっている。チーム専属の車両の他、参加レーサーのために中立の立場にある車両(ニュートラルカー)も競技に伴走し、機材故障時に自社の製品を提供したり、水のボトルを提供したりしている。また、交通規制や極端な不正行為(ドーピングレベルでなく禁制薬物使用など)の取締りはジェンダルマリー(フランス国家憲兵隊)と
ポリスナシオナル(フランス国家警察)の二系統の警察が担当している。
歴史
ツール・ド・フランスは、スポーツ新聞社ロト(L’Auto、現在のレキップ紙)の宣伝のために、編集長アンリ・デグランジュが企画したもので、自転車レースを企画するライバル2紙、ル・プティ・ジュルナル (Le Petit Journal) によるパリ−ブレスト往復 (PBP 現在のツーリング|ブルベ) 、並びに、ヴェロ紙 (L’Velo) がスポンサーとなるボルドー−パリ間レースに対抗するものであった。1903年に第1回大会が行われ、1ステージ平均400kmを走るという過酷なレースであった。初期のレースでは、殆ど休みの無い連続の耐久戦であった。ライダーは道路脇で眠り、他者の協力を得る事は禁止されていた。第2回大会では、数人の選手が途中列車に乗ったために失格になった。山岳ステージは第3回大会から導入されている。当時はまだ変速機が無く、登山用ギアは後輪の反対側に取り付けられていた。このため、上り坂のたびに後輪を前後反対に付け直さねばならなかった。第一次世界大戦|第一次、第二次世界大戦によって、1915年から1918年及び、1940年から1946年は中断を余儀なくされた。
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各種問題
ドーピング問題
1998年のツールではドーピング問題に見舞われた。チームフェスティナのチームカーから禁止薬物が発見されたことに端を発し、逮捕者8人を出す一大スキャンダルに発展、チームフェスティナはツールから除名された。ツールに国家憲兵隊が介入したことに抗議して、スペインから参加した全チーム、およびイタリアから参加した1チームが棄権している。ドーピング問題は2006年に再び再燃し、オペラシオン・プエルトの余波を受けてヤン・ウルリッヒやイヴァン・バッソ、アレクサンドル・ヴィノクロフなどの優勝候補が軒並み出場停止となった。ドーピング問題はこれでは収まらず、総合優勝したフロイド・ランディスがドーピング違反により、タイトルの剥奪(はくだつ)が決定した。また2007年にもドーピング問題は再び猛威を振るい、総合優勝をほぼ確実にしていたミカエル・ラスムッセン、優勝の大本命とされていたアレクサンドル・ヴィノクロフ、コフィディスのクリスティアン・モレーニらが終盤、次々にドーピング疑惑をかけられて棄権に追い込まれた。この影響でアスタナ・チーム、コフィディスはチーム全体が棄権することになった。近年、主催者であるASOと国際自転車競技連合との間でツールの管理に関して確執が起こっており、
ドーピング問題への対応についてもしばしば論争の的となっている。
各賞とリーダージャージについて
数種の賞が設定されており、リーダージャージと呼ばれる各賞に応じた色別のジャージがある。 前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手がそのジャージを着用する権利を手にいれる。
マイヨ・ジョーヌ
黄色のジャージ「マイヨ・ジョーヌ」(maillot jaune) は個人総合成績1位の選手によって着用され、最も名誉あるジャージである。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手がリーダーとして「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マイヨ・ジョーヌ」着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。これはレースのスポンサーであった新聞、「ロト」紙の黄色のページに由来するものである。近年のツールでは最終ステージとしてパリ・シャンゼリゼにゴールする平坦ステージが恒例化している関係で(平坦ステージでは集団ゴールになることが多く、特に最終ステージはメディアの注目度が高く逃げが決まりにくいことから、総合優勝争いに関わるほど大きなタイム差をつけるのが事実上困難である)、実際には最終の直前のステージで総合優勝者が決まることが多い。ゴール争い時の危険防止のため、集団でゴールした場合、集団内のすべての選手は集団先頭と同タイムとみなされる。同様の目的で、ゴール手前3km以内(2004年までは1km以内)で落車した場合は、元々その選手が加わっていた集団と同じタイムが与えられる。
マイヨ・ヴェール
緑のジャージ「マイヨ・ヴェール」(maillot vert) は「ポイント賞 (グランツール)|スプリント賞」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリント・ポイントが加算され、スプリント・ポイント1位の選手が「マイヨ・ヴェール」着用の権利を得る。ポイントの数値はステージの形状により変わる。ゴールでのスプリント・ポイントは平坦ステージの場合が最も高く、以下、中位のステージ、山岳ステージ、タイム・トライアルの順にポイントが少なくなる。各ステージにはおおむね2箇所の中間スプリント地点が設定されており、そこを3位までに通過した選手にはポイントが与えられる。総合成績と異なり、1cmでも先にゴールした選手がより高いスプリント・ポイントを得るため、ゴール前ではスプリンター同士の熾烈な争いが繰り広げられることとなる。2002年から2004年にかけて、スプリント賞は最終ステージのパリ・シャンゼリゼゴールまで持ち越され、「マイヨ・ヴェール」をめぐるスプリンター同士の白熱した戦いが繰り広げられた。
| スプリント・ポイント表 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 通過順位 | 1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 | |
| 平坦ステージ | 35 | 30 | 26 | 24 | 22 | 20 | 19 | 18 | 17 | 16 | 以下25位まで |
| 中位山岳 | 25 | 22 | 20 | 18 | 16 | 15 | 14 | 13 | 12 | 11 | 以下20位まで |
| 上級山岳 | 20 | 17 | 15 | 13 | 12 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 以下15位まで |
| プロローグ&TT | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |
| スプリントポイント | 6 | 4 | 2 |
マイヨ・ブラン・ア・ポア・ルージュ
「キングオブマウンテン|山岳賞」の着るジャージは白地に赤の水玉模様で「マイヨ・ブラン・ア・ポア・ルージュ」(maillot blanc ? pois rouges:直訳は「赤玉の入った白いジャージ」)と呼ばれる(マイヨ・グランペール、最近は省略してマイヨ・ア・ポアとも呼ばれる)。山岳ポイントが1位の選手に着用の権利がある。
登り坂は勾配と長さに応じて、カテゴリー超級からカテゴリー4級までの5段階に区分されており、最初に頂上を通過した選手に対し、カテゴリーに応じた山岳ポイントが与えられる。カテゴリー超級の坂はいずれも過酷な登りであり、ツールマレー峠、モンバントゥ、ガリビエ峠、ラルプ・デュエズ等が有名である。最優秀クライマーは1933年に最初に表彰されたが、特別のジャージが登場したのは1975年のことである。これは当時スポンサーであった菓子メーカー「プレ・ショコラ」の人気商品から採用したものである。近年山岳王を狙う選手が、山岳ポイント稼ぎの目的でコース前半の山岳でアタックし、その反動でコース最後の山岳では大きく後退する例が目立ったことから、2004年よりルールが改正され、その日のコースで最後の山岳がカテゴリー2級以上の場合はその山岳の通過ポイントが2倍となることになった。このため最後まで上位集団に食らいついてゴールした方が山岳ポイントで有利になることになり、山岳王争いの戦略にも大きな影響が出ている。
| 山岳ポイント表 (2003年まで) | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 通過順位 | 1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 | |
| カテゴリー超級 | 40 | 35 | 30 | 26 | 22 | 18 | 16 | 14 | 12 | 10 | 以下15位まで |
| カテゴリー1級 | 30 | 26 | 22 | 18 | 14 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 以下12位まで |
| カテゴリー2級 | 20 | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 4 | 3 | 2 | 1 | |
| カテゴリー3級 | 10 | 7 | 5 | 3 | 1 | ||||||
| カテゴリー4級 | 5 | 3 | 1 | ||||||||
| 山岳ポイント表 (2004年以降) | ||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 通過順位 | 1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 |
| カテゴリー超級 | 20 | 18 | 16 | 14 | 12 | 10 | 8 | 7 | 6 | 5 |
| カテゴリー1級 | 15 | 13 | 11 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | ||
| カテゴリー2級 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | ||||
| カテゴリー3級 | 4 | 3 | 2 | 1 | ||||||
| カテゴリー4級 | 3 | 2 | 1 | |||||||
マイヨ・ブラン
白のジャージ「マイヨ・ブラン」(maillot blanc:白いジャージ)は、年齢25歳以下の中で総合成績が最も高い選手に与えられる。「新人賞」と訳される場合があるが、25歳以下であれば複数回受賞できる「最優秀若手選手賞」とでもいうべきものである。実際にマルコ・パンターニは1994年・1995年の2回、ヤン・ウルリッヒは1996年から1998年まで連続3回獲得している。
ゼッケン
通常のゼッケンは白地に黒文字であるが、以下の特別なゼッケンが用意されている。赤地に白抜き数字のゼッケンは、敢闘賞で、タイムトライアル以外の毎日、特に果敢に動いたとして審査員が選んだ選手に与えられる。2006年と2007年の大会では、黄色地に黒文字のゼッケンがチーム総合首位の選手たちに与えられた。
チーム成績
最後に、チーム成績が評価される。この順位決定のために、各チームの中で早い順に先頭から3名の所要時間が各ステージの終了後ごとに加算され最も少ない時間のチームが表彰される。ツールは1チーム9人で構成されるチームが(競技開始時には)約20チームで構成され、各チームは1社ないし数社からスポンサーされている。チームにはそれぞれの歴史があるが、スポンサーではなく国籍によって分類されている。
知名度と露出度
グランツールと呼ばれる3大ツールの中でもツール・ド・フランスの知名度・露出度は突出しており、日本では「世界最大の自転車レース」として名が通っている。また、今や出場選手の国籍が欧州に限らず世界各地から選抜されている形となっていることも手伝い、他の自転車レースには興味がない人も、ツール・ド・フランスだけは特に熱狂的となるファンが多数存在する。こうした背景を見ると、ツール・ド・フランスはサッカーのFIFAワールドカップ|ワールドカップなどと並び、世界屈指のスポーツ競技大会であるといえる。しかしながら、ツール・ド・フランスがグランツールの中で最も過酷な自転車レースかというと、その点については疑問符がつく。グランツールでは、いずれのレースも3週間程度に亘って戦いが繰り広げられることを考えると、とりわけ選手の実力差がつきやすい山岳コースの設定数や、気候条件の厳しさも考慮せねばならないからだ。ジロ・デ・イタリアは山々の残雪が残る山岳ステージにおいて厳しい寒さとの戦いになることが少なくないし、ブエルタ・ア・エスパーニャは酷暑との戦いとなりやすい。したがってツール・ド・フランスが必ずしもジロやブエルタと比較して最も過酷なレースであるとはいえない。しかし、プロロード選手にとって、生涯一度は出場してみたいという気持ちを持つ自転車レースというのはツール・ド・フランスが随一である。またツール・ド・フランスでは区間優勝を1回経験したというだけでその選手の生涯の勲章になるケースもある。
歴代総合優勝者
国別優勝回数
2006年まで国籍別ではフランスが36勝、次いでベルギーが18勝、スペインとアメリカ合衆国が10勝、イタリアが9勝、ルクセンブルグが4勝、スイスとオランダがそれぞれ2勝、アイルランドとデンマークとドイツが各1勝となっている。
5勝クラブ
ツールで総合優勝を5回達成した選手達を俗に「5勝クラブ」と呼んでいる。「5勝クラブ」に名を連ねている5人はいずれも歴史に残る名選手である。2005年ツールにてランス・アームストロングは史上初の7回の総合優勝を達成した。
: 優勝年・・・1957年、1961年、1962年、1963年、1964年
:タイムトライアルのスペシャリストである。1957年にツール初出場にも関わらず、圧倒的な強さで初優勝を飾った。その後、肺炎等のため勝利から見放されていたが、1961年にカムバックを遂げ、勝利を重ねた。1964年のツールでは消化不良に苦しんだが(ピレネーの休養日に振舞われた羊料理のためとされる)、それを隠し通し、ライバルの追撃を振り切り5度目の栄冠を掴んでいる。
: 優勝年・・・1969年、1970年、1971年、1972年、1974年
:ツール5勝に加え、ジロ・デ・イタリアでも5勝、世界チャンピオンにも3度なっている。トータル525勝、勝率28.12%は、史上最も偉大な選手としてふさわしい記録である。初優勝の1969年の際には、ポイント賞 (グランツール)|ポイント賞、キングオブマウンテン|山岳賞も併せて受賞し、主要三部門独占を果たしている。この記録を達成した選手は今もなお、メルクスただ一人だけある。クラシックレースでの強さも圧倒的で、勝利に対するあまりの貪欲さから「食人鬼」の異名をとった。
: 優勝年・・・1978年、1979年、1981年、1982年、1985年
:ジャック・アンクティルに次いで、ツール初出場で初優勝を勝ち取っている。1985年のツールでは山岳ステージの落車で鼻を痛め、呼吸が困難になるアクシデントに見舞われた。このときチームメートのグレッグ・レモンに優勝のチャンスが舞い込んだが、来年は自分がレモンのアシストに徹することを条件に優勝を譲らせたという逸話が残っている。しかし翌年、6勝目をあげるべくレモンに立ちはだかったため、2人の間に確執が生じることとなった。結局この年はレモンが総合優勝をしている。イノーはかねてからの公言通り、1986年に32歳の若さで引退している。「ブルターニュの穴熊」の異名をとった。
: 優勝年・・・1991年、1992年、1993年、1994年、1995年
:ツール史上初の5年連続優勝を達成した。80kgを超す巨体ながら山岳ステージや特に個人タイムトライアルで絶対的な強さを発揮した。92年、93年にはジロ・デ・イタリアとツールを両方勝つという「ダブルツール」を達成している。2年連続のダブルツールを達成したのは彼一人である。圧倒的な強さに加え、どの選手からも尊敬され愛される穏やかな人柄から「ロワ・ソレイユ(太陽王)」とまで呼ばれた。
: 優勝年・・・1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2005年
:1996年に睾丸ガンに冒されたが、奇跡のカムバックを果たし、初の7連続優勝を達成した。高ケイデンス(回転数)の独特の走法で、山岳およびタイムトライアルに圧倒的強さを示す。2005年限りで引退。ツールにおける彼の圧倒的な強さの背景には、ツール・ド・フランス以外のレースを全て捨ててツールを勝つことのみに特化した調整を行っていたという事情もあり、競技生活全体を見ると、彼の実績が「5勝クラブ」の中でも突出しているというわけではない。
日本人選手
日本でのテレビ放送
現在日本での放送は、スポーツ専門チャンネルJ SPORTSで全戦生中継されている。1985年から1991年にかけては日本放送協会|NHKが放映権を持ち、主にNHK衛星第1テレビジョン|BS1で中継を行っていた他、地上波でも数回「世界最大の自転車レース」と題して単発特番を放送していた事もある(現在この間の放送をDVD化したものがNHKエンタープライズから発売されているhttp://www.nhk-ep.com/view/11241.html
ツール・ド・フランス 1985〜1991 7YEARS BOX 【NHKエンタープライズ】)。1992年にフジテレビが放映権を取得し、同系列で「英雄たちの夏物語」というダイジェスト番組を2〜3回にわたり放送していた。またJ SPORTSが生中継を始める前は、フジテレビが衛星録画、山岳ステージの衛星中継を独占で行なっていた。1998年には当時の「SKY Sports」(J SPORTSの前身)がフジテレビからサブライセンスを受ける形で生中継を開始(その関係から、青嶋達也などフジテレビのアナウンサーが実況を担当することが多かった)。2005年よりフジテレビが放送権を放棄し、代わってJ SPORTSが5年間の独占放送の権利を取得した。なおJ SPORTSの生中継では、中継が非常に長時間(最大で7時間強)に及ぶことから、放送中に実況・解説者に補給食(レース中に選手が補給食を受け取るための袋にちなんで「サコッシュ」と呼ばれている)が配られそれを食べながら放送を行うという、他のスポーツ中継にはない特色がある。2007年にはJ SPORTSの携帯サイトにおいて、視聴者が中継を見ながら食べているものを写メールで送ってもらう「今日のサコッシュ」というコーナーが展開されるなど、ツール中継における名物となっている。
また、2000年から2004年まで開催期間中に非公式裏ツールとサイトが公式サイト内に設置され、視聴者からの質問等をフォローしていた。川柳の投稿や放送内に行われるプレゼントクイズへの珍回答などを題材に毒舌の担当者の独断と偏見でプレゼントが贈られるなどファンには人気があったが、いまは終了している。スポーツ番組とは関係がないが、ドラマ「僕の歩く道」では、主人公の大竹輝明が自閉症の症状で、このレースの歴代優勝者を、落ち着かなくなったときにつぶやくというシーンがある。
脚注
外部リンク
* http://www.letour.fr/www.letour.fr
www.jsports.co.jp/style/
ツール・ド・フランス速報
TdF Quiz
Video of the Tour de France 2006 final stage on the Champs-Elysees
フジテレビ (2004年版)
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◆ツール・ド・フランスについてピックアップ 「キングオブマウンテン|山岳賞」の着るジャージは白地に赤の水玉模様で「マイヨ・ブラン・ア・ポア・ルージュ」(maillot blanc ? pois rouges:直訳は「赤玉の入った白いジャージ」)と呼ばれる(マイヨ・グランペール、最近は省略してマイヨ・ア・ポアとも呼ばれる)。山岳ポイントが1位の選手に着用の権利がある。 登り坂は勾配と長さに応じて、カテゴ... |



